独白 其の壱


「春を訪ねて春を得ず、帰って有り、庭前一枝の梅」と、教授が最終講義で黒板に大きな文字を書いて説明されました。

 精欲盛んな若人には、幸福が足元にあると話を聞いても、ピンときませんでした。

 幾多の試練を乗り越え五十歳台半ばを迎え、熟年・老年期をどう豊かに過ごすか暗中模索していた折、当寺を訪ね一目惚れ。意気投合して三年目となりました。宗旨、宗派にこだわらないお付き合いをさせていただいております。

 私も人の子、仏の前では「善い子」の素振りはしたい。少しは齧った仏教の知識をちらつかせて遊ぶのですが、相手は神懸り的な姿や形相もしていないのに、いつしか笑い飛ばされ、帰る時間も忘れさせられております。大阿闍梨のお話は、難解な経典・経文を並べるでなく、自らの体験を元にしたお話なので、余計に引きずり込まれるのかもしれません。

 先月、今年初めて遊びに行きましたら、「何か好きな名前はないか」と、おもむろに話を切り出され、『恵照』の名前を頂きました。人の都合も聞かずに姓名判断し、天・人・地・総・外格と画数を組み合わせた結果、これが相応と決められました。

 とはいうものの、未だに弟子入りは許可していただいておりません。お断りしておきますが、本名に不平不満はありません。お寺に出入りしているうちに気心が知られ、気性・気質を見抜かれた挙句の改命です。『恵照』の『照』をみて、「照顧却下」の禅語とともに、教授の講義を改めて思い出しました。

 人間の心は強くなれることもあれば、弱くなることもしばしばです。弱くなってから神仏に頼んで、手を合わせて頼みますが、心の拠り所にして弱い心を強くすべきかと存じます。

 人生四苦八苦の連続です。神や仏はようも次から次へと難題を振り掛けるものだと感涙・感動しておりますが、これも仏に近づく試練・修養と難なく受け止められるようにと、お寺に来て、お坊さんの真似をして楽しんでおります。

 毎月28日は私の当番日です。お不動さんの御縁日を割り振っていただきました。

 今日、初めてこのホームページを覗いていただいた皆様とも何かのご縁、これを契機に毎月クリックしていただくとともに、一度お寺へお気軽な気持で遊びにきてください。お待ちしております。


独白 其の弐


 ここのお寺には、僧侶がお二人みえます。私は『パパ』『若』とお呼びしております。師弟の間柄ですとこうは気安くお呼びできないのですが、信者・信徒ともいいがたく、ファミリーの一員として気が向くと遊びにいける雰囲気が一番なのです。この先、のんびりとおおらかに生きてみたい私には、格好の遊び場なのです。

 わたくしたちは、知らず知らずに他人に迷惑をかけております。自分では「善」としても、他人には「何というお節介なこと」と詰られようが、他人に迷惑をかけずには生きていかれないのではないでしょうか。

 先月号で、『恵照』の名をいただいたお話をさせていただきました。パパは「突然のことに戸惑われておられるのでは」と心配いただきましたが、結果としてはこれは私の儲け。

 ちょっとしたことで人間は変われるのです。今までの不幸を嘆くのではないのです。これからが、より一層明るく楽しくやれるのだと信じられる幸福感『鰯の頭も信心』これですよ。

『人生どの道歩いても花ざかり』とプロ野球解説者の板東英二さんの色紙を思い出します。人生には正解がありません。自分の人生です。山あり谷ありの波乱万丈の人生だからこそ、退屈せずに、日々挑戦し精一杯生きられるのです。今の私には、パパや若という心の拠り所があるのです。このお二人のずっと向こうには、仏さまがおみえです。あやふやな時代だからこそ、無い頭でくよくよ考えず、あくせくしないで、現在の生活を元気で、明るく、楽しく過ごせればいいのです。

 いささかふざけたお話になりますが、若から、毛のない坊主頭の私に、お坊さんへの変装指令。網代笠と白装束に茶色の法衣まで用意され、熊野古道ウォーキングツアーに参加しました。目深に被った網代笠姿で、いつものメンバーの前に立った時の動悸のすごかったこと。早く誰か気づいてと思わず念じました。ニコッと笑ってくれる顔や呆れた顔、様々です。「今日は一日この格好でご一緒させていただきます」とお断りしたものの、他のツアー客には、変な人が紛れ込んできた、といった眼。いかにお坊さんに成りきることの難しさを味あわせていただきました。

 坊主頭に袈裟を着せても、お坊さんでしょうか。桧林の中の石畳を一歩一歩と踏みしめながら、口の中で、「オン・アビラウンケン」と繰り返し念じて、心を落ち着けると、あら不思議や、いつしか背筋が伸び、いつもドン尻を歩く私が、先頭集団を歩いているではないですか。熊野古道の語り部さんの説明が始まると、坊主姿に珍しがられ、「ご一緒に写真を」とせがまれる次第と相成りました。

 初級者コースといえども、下り道は怖いもの。年輩の女性が、岩や木に手をつきながら歩く姿を見て、思わず、「この杖をふもとまでお使いください」と手を差し延べました。一本の杖、お一人にしかお使いいただけませんでしたが、この一本の杖が今日の私を救ってくれた、とふと嬉しくなりました。

 相手には、『小さな親切、大きなお世話』かもしれません。けれども私には、私がおまえを助けてやったのだ感謝しろ、といった思い上がりはありませんでした。貸してあげたのではなく、モノを与えた人が、与えられた人に感謝するもの、という布施を体験させていただいたのです。頭でわかっていても、実行に移しがたいことを、お坊さんに変装し、味あわせていただけた私の儲けです。

 これからも、自分の好きな仏さまをイメージして、真似て、仏さまに近づけられれば、と精進させていただきます。

 また、この画面でお逢いできることを楽しみにして、今日はこれにて!!


独白 其の参


 みなさん、お元気ですか!

 恵照は以前、ビッグコミックオリジナルに連載されていた『はぐれ雲』の主人公が、町娘とすれ違う際、「おねえちゃん、いいウンチしてる?」と声掛けるシーンが一番好きでした。さりげなく他人に声を掛けてあげられる人が好きです。こうして文章にすることは、いとも簡単にできるのですが、日々の生活の中において、そばにいる人達に果たしてこのように声を掛けることができているでしょうか。

 ちょっとしたことができないのです。周囲を見回してみても、そんなに大差がないのに、偉そうに威張ったり、自分で自分を苛め卑下している人、と色々な人が溢れております。その昔、東京で電車の中から夜のオフィス街を眺めていたら、エライ様の前でペコペコしているシーンが遠くの窓に見えて、人間はなんてちっぽけなものだ、と思いました。仏さまも、きっとこのようなお気持で下界を眺めておられるのでしょう。

 やさしい言葉をかけようとすればするほど、ああでもない、こうでもない、と無い頭で考えてしまいます。素直に「おはようございます」「お久しぶり、お元気でした?」「お疲れさま」「お先に失礼します」「あらゴメンナサイ」等と声が出るというか、出ているときは、生活に疲れがないときや、少々余裕があるときではないでしょうか。

 他人と見比べすぎると、『いい子』ぶる生活に陥りやすくなります。自分で自分を疲れさせていませんか。

 日本人には「努力」という言葉が好まれています。漢字を覚えるときに、「オンナ・マタ・チカラにまたチカラ」と口ずさみながら書きました。仏の世界など精神を高めるときには、精進がよく使われます。どう違うなんてことはこだわらないの!! 興味があったら辞典で勉強してね。

 やりやすい、やれることから始めればいいのです。得手・不得手があるのです。何もかも不得手なことからスタートするから疲れるのです。口べたな人は、お父さんお母さんからいただいたそのスマイルで会釈から始めてはいかが。いい顔してるんだから!!

 『自我我入』といった言葉が、仏教書に必ずといっていいほど登場してまいります。

 本来は、修行・修道者が、仏さまの境地に近づくという意味になります。しかし、この『自我我入』が、昨今、増えている自分で自分の殻に閉じこもる人達を象徴しているように思えます。ちょっとした思いやりを持っていただくだけで、明るい、楽しい生活が送れる筈なんですがね。

 すてきな人生は、くよくよしないで、ありがとうと感謝する生活が一番かと存じます。

 この世の中、生かされている以上、何かいいものを持っている筈です。一番いいところはどこか、自分や他人を再発見してみましょう。アレっと気がつけるだけ楽しくなり、思わぬ儲けとなりましょう。

 実は、私もこうしてみなさんとこの画面でお会いできる機会を得まして、日々が勉強・修行と感謝しております。

 今日もありがとうございました。またお会いできることを楽しみにしております。