独白 其の四


 みなさんお元気ですか?

 恵照は、鮎釣りを始めて二十年近くになります。解禁になるとワクワクしながら川へ走る姿を見て、「そんな殺生ばかりして」と詰られます。

 ご心配いりません。私ども人間と四足の畜生には、一個一体の魂があるものの、お魚さんや鳥さんには、群れというか集団に一個の魂があるから大丈夫、と都合良い話を食鶏業の親父さんに教えられ、かわいい鮎さんには感謝しながら一日川で遊んでおります。

 いい加減といえばいい加減ですが、これくらいでモノ事を考えるのが一番シアワセなのです。根こそぎ獲ったりするのではなく、チビさんには、「もう少し大きくなってからもう一度おいで」と、思わぬ大物が掛かると、「よう待っていてくれました。アンタもウレシイだろうが、うちの母ちゃんもっと喜ぶ」と天の恵みに感謝します。

 そりゃあ、朝の早うから竿を出しておりますから、欲がない訳ではございません。周囲の竿がうなると羨ましくなり、「早う連れて来んか」とオトリを叱咤し、元気な鮎が掛かると、「ハイご苦労さん、ようガンバッタ、もう休んでいいよ」と労い言葉をかけ新しい鮎さんには、「さあ、元気にお友達の所へ帰るのよ」と励ましの言葉で竿を送り出すのです。

 この鮎と一身一体となって戯れて遊べるのが鮎掛けの醍醐味なのです。

 人間関係とよく似ております。糸を強く引きすぎるとすぐ弱り、少し甘やかすと岩や石の間に潜り石がかりなど、糸の張り具合の頃合い、付き合いが一番難しいのです。

 自分では細心の注意を払って操作しているつもりなのですが、どこかに狂いが生じて不具合が生じてしまいます。

 それにひきかえ、仏さまは、良く観ているものだと感心させられます。どこから、どのようにこれだけ多くの人間一人一人の行いを見逃さずにおれるのでしょうか。スゴイですね。

 ひろさちやさんの本で、観音さまは、音を観ると書くのですよ、と読まされて感心したものです。

 清流の中に佇みながら、一心不乱に遊び、オトリ屋のおやじさん、おばさんや、釣り人との挨拶や会話からのいい言葉・いい顔といい場面に今日も会えたと、釣果も忘れて夏を楽しんでおります。

 それはそれとして、やはり一番のめり込んだのは、朝早くからおにぎりを作り、お茶をわかして送り出してくれたお母さんや娘が、天然の鮎を食べたときの満足顔がわすれられないのです。

 鮎さん、ありがとう。あんたのおかげで、この夏も、私と私の周囲の人達を和やかに悦ばしていただき感謝しております。

 皆さんの周りにも、鮎さんに負けず劣らぬいい人達がたくさんおります。いろいろな出逢いの中で、いい所を見逃したり聞き逃したりしないで精進をしませんか。

 楽しい夏休み、遊ぶ企画をしていると病気をしているヒマがありません。ごきげんよう!! またお逢いしましょう。


独白 其の五

 いい夏休みやっていますか?

 恵照は、昨年に続いて二回目となります京都花園妙心寺の花園会「夏期講座」へ参加します。

 飛騨信貴山は真言宗高野山派ですが、私は、臨済宗妙心寺派の檀徒です。宗旨宗派にこだわらないで、少しでも仏さまに近づければと考え、本山へ遊びにいきます。

 二泊三日の短い期間で、禅や仏教が理解できるとは毛頭考えておりません。

 毎朝五時半に起床し、法堂での読経・座禅を実践させていただきます。全国から老若男女が参加されるので、相部屋や教室では、色々な人達との出逢いがまた楽しいものです。

 仏教の親しみ方にも色々あります。私は、歴史・人物・地理を学習させていただきます。いつ、どこで、だれが、どうしてといった展開で教わると楽しくなります。長年修行されて会得された、禅語や公案(こうあん)に触れて、なるほどと頷けるものや、うーんと唸って、無い頭をひねる場面もあります。難解なものと判るだけでもいいのではないでしょうか。

 永平寺の開祖道元禅師は、「只管打座(しかんだざ)」ひたすら座禅しなさいと説かれております。日々の生活の中に修行がある。一心不乱に、静かな心、まっすぐな心で、立ち振る舞いから仏さまに近づきなさいと教えていただいていると理解しています。

 日頃は、生半可な考え方や、不規則な生活習慣に浸っている凡夫の私には、この機会が反生活習慣のお勧めと、発想の転換の場面としております。

 「まっすぐな心」は、自分も他人をもまっすぐにする勇気へと導きます。玄関で履物を揃えて上がることから始まります。

 坊主頭に袈裟を着ても、雪駄が脱ぎっ放ししている姿勢から正さなければなりません。雪駄を揃えて上がる。普段の生活を見直しさせていただきます。

 禅や仏教の学習もそれなりに楽しみますが、私には、もうひとつ楽しみがあります。それは、こっそりと部屋を脱け出して、東山にかかる三日月を仰ぎながら、人気のない境内を散策することです。広い境内の塔頭から雲水達の般若心経の読経や木魚の音が聞こえてきます。静寂といえば嘘になりますが、この空間に身を置き、石に腰掛け、右足を左足に乗せるだけの半跏趺座(はんかふざ)の座禅を楽しむのです。腹式呼吸で息を整え、おへその下にある丹田(たんでん)に意識を集中して、今日も無事来られましたと感謝します。

 悟りの境地なんてことは考えておりません。何かしら、落ち着けられる時間がたまらないのです。だからといって、自分はいいことをしているんだ、他人から褒めてもらいたいという気持や、今どきそんなことをしたり、言うことはきっと笑われるといった気持ではないのです。自分に都合のいい解釈は禁物ですが、お坊さんの真似に始まって、少しでも仏さまの真似ができる生活習慣が理想なのです。

 ひとりひとりが、仏さまに近づけられるよう悟りを開いていただければ、物騒な社会から平和な世界に変わるのではないでしょうか。

 夏休みの宿題の手伝い早く片付けて、残り少ない夏休みを面白くしてあげてください。

 それでは、またお会いできることを楽しみに、今日はこれまで!!



独白 其の六

 お元気ですか?

 恵照のホームページも桜花の春にスタートし、暑かった夏からお彼岸も過ぎ、秋へと移りました。

 こうして皆さんとお会いするために、月一回ペンを執りながら、自分を見つめ直す機会にありつけ感謝しております。

 恵照という名前をいただき、お坊さんの真似に精を出しているのですが、なかなかお坊さんには成りきれません。それでもこの歳になってお坊さんの真似をして遊べるのも、単に仏教の勉強だけでなく、若い頃からの人並みの幾多かの過ちなどを悩み抜いた末のことで、五十代半ばにして若にお逢いし、その人柄に惹かれてお寺に遊びに来られるようになったからです。

 人生の時節到来というか、二人の出逢いのタイミングなのでしょう。仏さまのお導きと感謝しております。計算づくで近づけられるものではありません。両者とも、他人には負けないくらいの苦楽を味わっていたからこそ、この出逢いを見逃さずに融けこめたのです。

 これが人生の面白いところです。普段なら擦れ違っても、そんなに気に留めないのに、ちょっとした話や仕草に惹かれ、夫婦や友人になってしまうのと同じです。これは、仏さまの仕掛けと理解している今日この頃であります。

 最近、私の周囲には、身体の健康を説いてまわる人が多くなりました。世界一の長寿国になった日本、皆さん長生きしたいのはわかりますが、身体だけ長生きしたって、ちっとも面白くありません。身体とともに心も健康であってこそ、楽しい人生です。

 他人さまに押し付けようという気は毛頭ありません。けれども恵照自身もこういったお節介な性分がときどき頭を持ち上げて、お説教めいたことを口に出してしまい、「ああ、また言っちゃった」と反省することがあります。

 でも、それぞれの人生です。早かったからとか、遅かったからということにこだわらないで、気がついたときがあなたのタイミングなのです。

 人生、躍動しているときには、常に夢や希望があります。自分の理想の姿に向かって歩み続けていれば、道は必ず切り開いてくれるものと確信できるようになりました。決して他から与えられるものでなく、自らが作りだしてくれる執念の志が大切なのです。

 信仰・信心があっても、なくても、人間落ち込むことに変わりはありません。そんなとき、そんな自分を嫌わず、いじめずに、いまのあなたでちょうどいいと、自分と付きあえる自分を育ててみましょう。『焦らず、慌てず、妬まずにコツコツと』精を出していれば、仏さまは心に風邪などひかせないと信じております。

 あたまも、からだも、使っているところは強くなりますが、その反対に、使わぬところは弱くなるのです。お気をつけてください。

 悩んだら、とことんまで落ち込んでみて、それでも解決する糸口が見当たらないときには、お寺に遊びに来てください。いつでも相談にのらせていただきます。

 それでは、今日はこれまでに、またお会いできることを楽しみに、ごきげんよう。