独白 其の七

 皆さんお元気ですか?

 恵照が、いい歳してお坊さんの真似して遊んでおられるキッカケは、我が家に出入りする猫達のおかげです。

 猫かわいがりした時もあれば、腹立ちさを猫に当たったりしたこともあり、そんな自分勝手な自分に反省したからかは判りませんが、都合が悪いと「あの畜生」という言葉で片付ける中、仏教の「六道の世界」では、人の下にある「畜生」の部類に入れられているが、この猫達は本当に「畜生」なのかと気づいたからです。

 行儀の悪い猫は確かにおります。ゴミ袋を破ったり、台所の皿から失敬する猫に声を荒げる母ちゃんの声、どちらも近所迷惑です。

 恵照も、腹が減って帰るなり台所で、猫撫で声で「今日のおかずは何?」と母ちゃんの背中越しに、つまみ食いすることがあります。その側で、猫が恵照を見上げて、「ニャーン(こら、おまえだけなんでつまむんだ!)とたしなめてくれます。

 恵照は、この家では婿養子の身分ですから、拾われてきた猫と変わりなく、寝る場所と餌という食事を与えられています。違うところは、毎朝、真面目にお仕事に行き、猫ババせずに給料を運んでくること位です。帰宅途中など、かわいい雌猫にスリ寄ることもありますが。

 この家での猫との付き合いは、亡くなった姑さんが、近所の空き地で、後足を轢かれて動けなくなっている猫を見つけ、「兄さんかわいそうな猫がおる」と教えられ、餌と水を運んであげましたが、翌日には姿がなく、心配していましたら、「兄さん溝で死んどる」と教えられ、姑さんにご相談というかお許し願って、家の猫の額というほどの裏庭に埋めてあげました。これをキッカケに、我が家には猫が絶えません。腹ボテで迷い込み産み落とすと去って、育てさせられたり、挙句は斎場へ届けさせられたり、後始末には事欠きません。

 飼い猫と通い猫が、何代にもわたって出入りしておりますが、彼等と一緒に生活をしておりますと、少々のことなら許してしまうという心境にさせてくれます。言葉は通じないですが、優しい言葉か、荒げた言葉かの違いはちゃんと理解しています。人間には言葉という道具がありながら、なかなか相互の意思伝達が思うように出来ないのに、「畜生」の猫は応えてくれます。人間と同様無愛想な猫もおります。時計も持っていないのに、食事時間には押しかけ、黙って居座り続け、食事後の挨拶作法・お礼もなく寝ぐらに戻っていく猫。

 どうしてそんな猫に餌を与えるのと不思議がるかと存じますが、静かに居座る姿にどことなく愛嬌を感じてしまうのです。お帰りなさいと肩に飛び上がる猫、腕枕をせがむ猫、ハゲ頭をなめまわす猫、と色々な猫達との出会いがあったから、退屈しない生活をさせていただいてきました。

 老若・強弱・雌雄とそれぞれ好き嫌いがあっても、彼等の中にも社会のルールがあります。安穏に暮らす手段といえばそれまでですが、食うことと寝ることへの知恵は、人間には負けません。最初のうちの餌をやってやるという姿勢から、お世話させていただけるという「布施」へと気持ちがスムースに入れたのも猫達のおかげと感謝しております。たまには千円札や五百円玉を見せて、「たまにはこういうのを持って来い、美味しいものを買ってやるのに」と冗談を言って笑いますが。

 縄張り根性はありますが、金銭欲や名誉欲は感じられず、食欲・性欲といったことからみれば、私共人間と同じ動物。仏さまは人にあるまじきこととして、「六道の世界」で修羅・畜生・餓鬼・地獄への世界を、落ちる恥をたしなめておられると解釈しております。

 猫達の肩を持つ訳ではありませんが、彼等には宗教心がなくても、社会のルールを守るという道徳心があると考えております。信じられないでしょうが、なかには怒鳴られてベソをかく猫もいるのですよ。

 恥を恥と感じぬ人達が溢れつつある現代社会だからこそ、もう一度人間らしく暮らすには何をしなければならないのかを教え導いていただけるのが宗教かと存じます。

 猫達に笑われないように、恵照は今日もお坊さんの真似をして、少しでも仏さまに近づけられるよう修行させていただいております。

 食欲の秋、腹八分目にして肥えるというか腹が出ないように、お気をつけあそばせ!!

独白 其の八

 皆さん、お元気ですか?

 恵照は、お坊さんの真似をして遊んでおりますので、ご先祖さまの命日などには経文を開いて読経します。毎日欠かさずに出来ればよいのですが、目一杯布団の中に潜り込んでいるサラリーマンには、身支度した後の合掌礼拝が精一杯です。

 生家は、真宗大谷派ですので「真宗在家勤行集」の経文に親しみがあるのも、平仮名附きで子供でも読めたからかもしれません。

 現在は、臨済宗妙心寺派の檀家ですので「壇信徒勤行聖典」を読経します。門前の小僧さんではありませんが、お坊さんの読経リズムを見よう見まねで覚えたお経ですから、節回しが正しいのか自信はありません。でも気持は、感謝一杯で合掌してお経を始めます。

 お経は仏さまの聖語と知ったのは、後のことであり、漢字の仏語を理解しないまま平仮名を読んでいました。高校時代、漢文の授業が大の苦手だったのも平仮名がなかったからで親しめず、そのため英語に走ってしまったのかもしれません。

 就職した職場での最初の係長さんは、我が職場では珍しく文章達筆な随筆家肌の人でした。係長さんは私に武者小路実篤の「論語私感」を読むように勧め、そうしていただいたのが、このような世界で遊べる契機だったのかもしれません。論語イコール漢文と面くらいましたが、随筆タッチでの論語解説の文章でしたので、南総里見八犬伝に登場してくる仁・徳・礼・智の字句を思い浮かべながら読み始めはしたものの、イントロの部分で挫折しました。

 しかし、この機会を与えられたことが、仁徳礼智の四字が、その後の人生の道標となったことは間違いありません。また、こうしてお坊さんの真似をして遊ぶ傍ら、色々な仏教書を読むにあたり、儒教と仏教との関わり合いや、サンスクリット語から漢字への翻訳の歴史を知るうえでは、大いに参考となりました。

 近年、井上靖の「孔子」がベストセラーとして脚光を浴びた折にも、論語に触れましたが、世の中から道徳心が失われつつあるからこそ、聖人君子の言葉が好まれるのかもしれません。

 静岡にトンカツで有名な「かつ好」があります。このお店のテーマに、人を良くすると描く「食」文字を心意とした『食是法喜』の言葉があり、それに触れたとき、身体の健康管理のために朝夕三度の食事も大切だが、心の健康維持のためには、朝夕一度でも良いから何か心にご馳走を食べてみたい気持にさせられました。

 「一日一善」運動不足の頭でも判ったつもりなのですが、人生観を豊かにするためにも、聖人君子の教えとか、親の教え、恩師の教えなど思いだし、その言葉、その教えを一つ一つこなして、味わって、自分のものにできれば幸福になれるのではないでしょうか。

 恵照は、哲学者でもないし、宗教家でもありません。ここへきて急ぐ必要もありませんが、チョットずつ自分にひたすら素直な心になれるにはどうすればいいのかを求めて、お坊さんの真似をして遊んでおります。このような雑文が、信貴山山王坊のホームページにと複雑な気分になることもありますが、毎回文章を書くことにより、目や耳だけでなく五感に訴える努力が必要となり、道理を求める自分をぐらつかせないようにしてくれると感謝しております。

 年の瀬です。我が家の猫達も陽だまりを求めて寝転んでおります。風邪に気をつけてください。

独白 其の九

 皆さん、お元気ですか!

 ときは刻々と流れてお正月。昔も今も同じ太陽系の地球ですから、現在の24時間という時間単位は、神さまが地球上の万物に公平にお与えくださったものと考えております。

 文明の進歩の中で、特に情報伝達の進歩がスピードを競い合い、いつしか機械も人間までもが時間に追われている時代です。と申します恵照もこの原稿に追われている始末ですが。

 以前は、今ほど美術館が多くなく、名品といわれる古美術・骨董品に触れる機会は少なく、美術や歴史の教科書で知る程度でした。お殿様やお金持ちがいなくなり、個人所有していたお宝ものが、世の中に出回り、『開運なんでも鑑定団』のテレビ番組も息の長い番組になっております。こうした美術品に触れたときに、昔の人達は美術学校もなかったのに、ようもこれだけ色彩やかに幾何学模様を取り入れた作品を創れたものだと感心させられます。宗教的儀式に使われたものが発端で、時の天下人・支配者の命令で製作されたのかもしれませんが、寸暇を惜しんでというか、「寝食も忘れて没頭した」成果ではないでしょうか。作者は、自分達の作品がまさか後の世までこのような形で残るなんて考えもしなかったかもしれませんが。先人達には頭が下がります。

 その時代にも、いつまでにといった時間の制約があったかもしれませんが、今に比べるとのんびりとした24時間だったのでしょう。灯りも満足な時代ではないのですから、陽が昇り沈むまでの時間での作業時間です。

 恵照もごたぶんにもれず、せっかちな性分です。モーレツ社員が流行した時代に育った世代ですから、「遅いことは猫でもやる」とスピードを要求され、いつしかおっとりとした性格も変化せざるを得なかったのです。

 せわしい世の中、今のスピードが昔のスピードに戻るなんてことは無理かもしれませんが、せめて自分を見つめ直す機会とお坊さんの真似して遊んでいる間は、あわてずにのんびりと遊びたいものです。何色に染まっているかも判らずにここまで来たのですから、今更ジタバタしても始まらないと考えている次第です。少し前は、ウマが合わない部下達を自分流に変えてみようと、がむしゃらにやりかけたこともありますが、染まりきった色を変えるのは至難のワザと気がつき、相手が変わるまで待とうという気持になりました。自分の色が何色かも判らず、その色が本当にマッチしているのか不可解なまま、他人に押しつけるのもいかがなものかと考えた次第です。仏さまの真似すればそのうち答がでるでしょう、とお坊さんの真似しているのです。

 現在、不幸福だからこの道に入ったのではなく、幸福と思えばこそ、ゆったりと遊べるのです。

 追い求める色模様が何であるかハッキリしませんが、これからもいい場面やいい人との出逢いを見逃したり、聞き逃したりしないように、明るく楽しく振る舞います。