独白 其の拾参

 みなさんお元気ですか!

 私の時代はそこそこ勉強して「蛙の子は蛙」ではありませんが、親の縁故で親父と同じように、弁当持って勤めに出るものと、選択の余地はありませんでした。
 親父と同じように先祖からの田地田畑を守ってゆかねばならないという使命感が、外へ出て行くという思考を失わせていたのかもしれません。
 百姓の家に生まれ、『大きくなったら、縁の下のゴミからカマドの灰まで、全部お前のものだ』とあるごとに教えこまれていましたから、この家を出るなんてことは考えることもできなかったのです。

 今の時代と違って、勉強・勉強と追いまくられることもなく、田植えの終わった田んぼに水かけやカマドでご飯を炊いたり、お湯を沸かし農作業から帰った両親がひとブロあびれるようにしていれば叱られずに済むのだと、知らず知らずのうちに仕込まれていたのです。
 そりゃあ、遊びざかりの子供のことですから、雨が降れば田んぼは休みとばかりに雨ガエルを殺して雨乞いしたものです。

 オモチャらしいオモチャもありませんから、カエル・ヘビ・トンボ・セミに家の周りにいる犬や猫がてっとり早い遊び相手でした。
 機嫌が良いときは、猫可愛がりするのですが、腹いせまじりに叩き伸ばしたり、羽をむしったり、蹴っ飛ばしたり色々と残酷なことをしたものだと反省しています。
 さかりづいた犬が交尾していた時、母がこういうときは絶対にイジワルしてはいけないとたしなめてくれました。今流の性教育だったのかも知れませんが、邪魔すると邪魔されるようになるといったタタリを教えてくれたものです。

 真っ暗な田んぼの畦道で、数をかぞえたり、九九かけ算を覚えさせられるかたわら、なにをしたらよいのか、なにをしてはいけないのか教えられました。
 しかし、今振り返ってみると、親も先生も人間がどのように生きたらよいのかまで教えてくれなかったような気がします。

 食べていくのがやっとの時代でしたから、精神論はそっちのけで、どうしたら腹いっぱい食えれるようになるのか考えることが精一杯だったのかもしれません。

 小学校時代は道徳教育の時間を記憶していますが、戦前の修身教育を受けた先生ですから、親の手伝い、親のいうことをきくといった親孝行の教えだけが強烈に残っています。

 あれはしてはいけないという社会のルールを守ることはしっかりと植えつけられたもののノーベル賞の野口英世や湯川秀樹といった偉人伝を読み聞かされる程度で、真になにをしたらよいのか、人間がどのように生きたらよいのかどこまで教えられたのか思い出せません。
 テレビや新聞をにぎわせているいろいろな犯罪事件を見るたびに、気の毒にこの人達は人間としてどう生きたらよいのか教えられていないと感じる今日この頃です。

 このコーナーを担当してもう一年たちました。このコーナーを通じて、一番むつかしい人間としてどう生きるべきかと考えさせられたり、自分なりに見詰め直す機会に恵まれたことに感謝しております。

 母が亡くなって三回忌をむかえる今、母が私に「盗むな」・「迷惑かけるな」・「嘘つくな」と口酸っぱく教えてくれたからこそ、今日まで無事息災に過ごしてくることができたのだと、ツト思い出し、子供時代に振り返って述べさせていただきました。

「母ちゃんありがとう!」

感謝合掌

恵照

独白 其の拾四

 イヌ、ネコに限らず動物は、産まれるなり一声あげるや、母親の乳首をくわえたり、くわえさせられたりします。これは本能といえますが、目が見え耳が聞こえ動きまわる成長につれて欲望が噴きだしてまいります。少し前ですが、痴呆症のお年寄りを福祉施設でお世話いただいた折に、施設の医師から教えていただいたのは、「今この患者さんは、食べること、眠ることと、おフロに入れてもらうことが一番ウレシイのです」ということでした。いわゆる自我なるものを失い、赤ん坊と同じ状態ですから、素直に肯けたものです。

 私に限らず皆さんにとってなんといってもこの世で一番大切なもの、可愛いものは、自分自身ではないでしょうか。食欲、睡眠欲にはじまり、物欲、金銭欲、性欲にとどまらず名誉欲へと進み、最後は長生きしたい死にたくないと自我の欲望には尽きることがありません。昔から腹八分目とほどほどにしておきなさいと先人が教えてくれているにもかかわらず、良い加減がわからずに、病気になったり、社会から脱落していく人があとをたちません。ご心配いりません。現代病ではなく、宇宙の神がこれらの本能を与えてお作りになったのですから、罪深きは神さまと考える恵照でありますが、いかがでしょうか。

 中国には四千年の歴史があり、孔子をはじめとする儒教思想が創始したように、文明文化の発祥の地には、色々な宗教がスタートしています。人間、社会生活を営むにつれ、社会のルール道徳・倫理観が、求道者の先人たち競い合わせ、今日の宗教に成し遂げたものと理解しています。仏教の世界では「煩悩」という言葉が使われます。語源はわかりませんが、漢字で理解するに、「わずらわしくなやむ」「わずらわしいなやみ」と考えれば、いかに昔から自我のコントロールに苦労してきたか肯けます。

 仏教を興されたお釈迦さまも、苦楽を味わったうえでお悟りになられ、仏陀になりました。そのお弟子さんたちが、現代に残る仏教書・経典をお作りになられ、生活指導者として引き継がれてきたものと理解しています。

 お坊さんを中心としたプロには、経典の解釈・分析力は必要かも知れませんが、凡人の私たちには、経典をひとつひとつ理解できる学識もなく、仕事に追われる身では、念仏をお唱えしたり、読経が精一杯ではないでしょうか。

 良いお坊さんが私たち凡人・衆人にとって良き指導者かと存じます。求めて求められるものではなく、いにしえの絆で結びつけていただける仏さまの引き合わせが、仏縁・結縁ではないでしょうか。

 恵照は現世利益を求めております。自我を捨てて、無我の境地なんてことさら難しく考えずに、ひたすら退屈しない生き方ができないかを求めます。まだまだ枯れるには早すぎますし、色欲・物欲・金銭欲・名誉欲を断ち切ることなんて滅相なことをいわないでくださいと、毎朝夕ご先祖さまにお願いしている次第であります。

 しかし山あり谷ありの人生と分かってきた年代の男、ガムシャラに走り通し続けることのカベの厚さに気がつきました。そんな折に現在の『阿闍梨』にお会いできたのです。最初の頃は、『傳燈大阿闍梨』の意味合いも分からぬままにお付き合いさせていただき、誠に失礼なことをしたものだと反省しておりますが、即座に溶け込めさせていただけたのも『阿闍梨』のなせるわざなりと平伏すると共に感謝しております。

 今までの思考に、タテ・ヨコ・ナナメと物事に対する考え方を加えさせていただきました。生まれも育ちも違う人間同士です。これからも、皆さんと同じようにお付き合いさせていただき、努めて明るく、楽しく、健やかな人生を謳歌したいと考えておりますので、よろしくお願いいたします。

感謝合掌

恵照

独白 其の拾五

 今年は桜の開花が例年になく早かったので、アユの解禁日まで早まり、原稿そっちのけで川へ走る支度に追われております。

 さて、私もこうしてホームページを担当しながら、色々な仏教書に目を通し少しでも仏に近づけるよう精進しているのですが、自分では親身になって尽くしている人にそっぽを向かれ「可愛さ余って憎さ百倍」の状態を味わっております。

 自分は愛情をもって精一杯尽くし、手を差し伸べてきたのに、どこで食い違ったのか真意が伝わらず、このもどかしさにイライラしているのです。なまじっかの愛情が相手には助平心にしか受け止めてもらえず憤懣やる方ない気分なのです。

 先月山王坊へ遊びに行きましたら、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」がホワイトボードに書いてあり、信者のどなたかに説法されたものと横目に見ながらお待ちしていたところ、顔を合わせた瞬間から「人間には人間を救えない」「救おうと考えている気持が思い上がりだ」と切り出され、阿闍梨に心の中を指摘されてギクッとしました。

 阿闍梨が言うように、自分は相手のことを慮って手を差し伸べてきたのですが、いいことをしているという慢心がいつしか自分の都合のいい結果を求めていたのです。どこかに思い上がりの気持が、知らず知らずのうちに相手のことより、自分中心に感情が働いていたのでしょう。

 相手があることですから、相手もただ黙って言いなりにはならないのですから、感情の衝突は避けられなかったのでしょう。

 『自利利他』頭では理解していても、いざ実践となると、つまらぬ感情が働いて相手に対する思いやりの大切さを二の次にしてしまったのです。素直に出来ないからこうして学習させていただけるのかな。

 ほんとうに可愛がるということは、相手の身になって誠心誠意尽くすことと、これからも、わが思いに反して腹立たしいことがいくつとなく重なっても、自分中心の勝手な思いを相手に押し付けないように心がけましょう。ところが、これがなかなか難しいのです…。

 私はビデオでチラッとしか阿闍梨の『衛門三郎』説法に触れていないのですが、血も涙もない極悪人であった衛門三郎は、空海に懲らしめられ懺悔し、空海に再びまみえようと四国遍路の旅に出たお話があります。衛門三郎は空海のあとを追うように、何十回と巡ってもまったく会えず、巡路を逆に辿ったところ、ようやく空海との再会を果たし、空海に看取られ死んだお話であります。お遍路さんの元祖で、札所を逆に巡る「逆打ち」は、その困難な行程から「順打ち」より何倍もの困難があるとされています。私にはまだお遍路さんの経験はありませんが、定年のあかつきには一度は体験してみたいと考えております。

 阿闍梨の説法も聴かずに使ってお叱りを受けかねるかもしれませんが、私もいつか衛門三郎のように、自分の本意を相手に真意に伝えることができるようもっともっと思いやりに磨きをかけ、暮らしやすい社会に貢献したいものです。

 この厳しい世の中、そう簡単に「棚からボタ餅」にあたることはありませんよ。だから一所懸命に精進するのです。足りないところは阿闍梨にすがって下さい。いいお坊さんですよ!!

 ということで今日はこれまで!

感謝合掌

恵照