如実知自心

 『如実知自心』(にょじつちじしん)

 この言葉は、私ども真言宗の大事な根本経典『大毘廬遮那成仏神変加持経』、一般には『大日経』といわれるこの経典七巻の中の第一巻「住心品」に示されております。

 お大師様が密教を求め、命懸けで唐に渡られた(当時の日本の船は盥を浮かべたような船で、横波がくればすぐに転覆するというような代物でした。その後、お大師様の造船技術の教えにより、現在の船のような型となりました)その動機は、この「大日経」であります。

 お大師様が二十三歳の時、奈良東大寺の大仏殿にて、「われに不二の法門を示したまえ」と最高最深の教えを乞う祈願をされ、二十一日間参籠し、その結願の日に、「大和国久米寺に行くべし」と仏のお示しを受けて久米寺の東塔に蔵されていた「大日経」を発見され、唐に渡って恵果和尚に教えを乞われたのも、この大日経の住心品の『如実知自心』の言葉に魅せられたからであります。

 伝記によると、インドより唐の国に大日経を伝えた善無畏三蔵が、わが国の奈良の都に来られた時、「この国いまだ密教伝導の機熟さず。時を待つこと後に、弘法利生の僧現れて、これを必ずや広めるであろう」と言い残し、置いて帰られたと記されております。この意味は、「この国にはまだ深秘なる密教(人の知恵では計り知れない奥深い仏の教え)を理解できる人(僧侶)がいない。密教を伝える時期ではない。密教を修める仏身(高僧)がこの世に現れたとき、必ずこの大日経典をみつけて密教を広めるであろう」ということで、密教を修める仏身とは弘法大師空海様のことで、大日如来の化身の姿なのです。

 大日経の中心となる教えが『如実知自心』であり、弘法大師様の教え、真言密教の心髄、即身成仏の教えの根本であります。『如実知自心』とは、「実のごとく自心を知るなり」、つまり、ありのままの己の心を知るという意味で、この簡単な言葉は、大変に意味深い言葉であり、奥の深い教えでもあります。

 自分の心をしっかりと見つめましょう。そして、知りましょう。自分自身の仏の姿を。恨んだり、憎んだり、妬んだり、すぐ腹を立てる怒りの心が、本当の自分の心ではないことを。殴ったり、苛めたり、無視をする態度が、本当の自分の態度ではないはずです。悪口や、嘘を言って人を騙したりする言葉が、本当の自分の言葉ではないはずです。本当の自分の姿は、優しく思いやりがあって、共に助け合う姿なのです。

 でも、ときには、間違って過ちを犯してしまう。それは、まだ私達は未熟な人間だからなのです。完全な人間、それは仏であり、私達未熟な人間が完全な人間(仏)に成る為に修行している私達は皆菩薩なのです。そして、その修行道場がこの世界・社会なのです。

 人々は共に修行する仲間なのです。だから、助け合い、導き合うのです。その姿が、菩薩の本当の姿であり、私達の本当の姿でもあるのです。そのことを知ることが悟りであり、覚ることなのです。

 本当の自分の姿を知る、自分自身の仏の姿を知りなさいという教えの言葉が、『如実知自心』なのです。

 どうか、その深い意味を知り、自分本当の姿を悟り、菩薩として、仏として、目覚めてくださいますことを、私は切に切に願う次第であります。

合掌

傳燈大阿闍梨 幸徳

春の童女

 桜の季節がもう終わりを告げて、色とりどりにサツキやツバキの花が開き始めた。
 新緑の山々にも新芽の若々しい青さが目に眩しく映る。
 小川のせせらぎは冬に積もったその雪解けの水を運び、日増しに暖かくなる陽射しのその中で岩場から姿を現す魚が泳ぎまわっている。
 のどかな飛騨の景色である。景色は移りゆく季節の到来を伝え、そして季節と共に巡り変わっていく。冬から春、そして春から初夏へ。常に季節は移り、そしてまた巡ってくる。
 昨年のこの時期に咲いた花が、また今年も咲き始める。昨年と同じように綺麗に花が咲く。
 いつもは何気なく、ただ咲いていると花を眺めていただけだったが、最近この言葉が花を見るたびに不思議と口ずさむようになった。

『年々歳々花相似、歳々年々人不同』

 それというのも、この春に遊びに来た女の子の、ある何気ない話からだった。
「わたし、ばけるっていう字知ってるよ、イ、ヒ、と書くんだよ」
 と、その女の子が話してくれた。
「そうか、化けるって文字は、イ、ヒ、と書くのか。そんな難しい字をよく知っているんだね」
 その子の話に乗って感心してあげると、
「ええっ!? 知らないの? わたし、もう三年生だから知ってるのよ」
 と、今度はちょっと得意げになって話してくれた。
「だからか……、だからお化けはイヒヒと笑うのか」
 と、からかってあげると、
「さむーいダジャレ」
 少ししかめっ面をし、その後、屈託のない笑い顔で言われてしまった。
 見事に子供に一本取られた私は
「じゃあ、化けるって文字に草冠を付けたら何て読むのかな?」
 と、その子に問い掛けた。
「そんなの簡単だよ。花って読むんだよ。わたし、もう大きくなってお姉ちゃんになったから、なんだって知ってるのよ」
 またまた得意げに、その子は話してくれた。
「そうか、花って読むのか。化けるって文字に草冠を付けると花になるのか、だから、ちっちゃな種からでも、綺麗な花が咲くのか。種が化けて花に変わる。それで化けるって文字は変化するって意味なんだね。あなたも今は小さいけれど、きっと花と同じように大きく変化してお母さんみたいに綺麗になるんだね」
 その子は少し照れ笑いをしながら、お母さんの後ろに隠れてしまった。
 何気ないこの春の雑談だった。それからは花を見る度にふと口ずさむ『年々歳々花相似……』と。

 花は今年も咲いている。昨年も、一昨年も、そして今も……、だが、果たしてそれは同じ花なのか? 確かに昨年と同じように花は咲いている。毎年同じように咲いているが、でもその花は昨年の花でも、一昨年の花でもない。似てはいるが、全く違う花。新しい蕾から新しい花が咲く。なのに私たちは、いつも同じ花と思って眺めていないだろうか。
 人間はどうだろう? 人間もこれらの花と何ら変わりはない。常に変わっている。変化している。なのに人は同じように思っている。変わらないものだと。
 変わってゆく。日々年々変わってゆく。人の心が、その考え方が……、梅雨時に咲き変化するあの紫陽花のように……。
 花は教えてくれている。同じ根っこからでも枝が分かれている木々のように、花も毎年違って咲くことを。
 人間に当てはめると、根っこや茎はその人間。花は人間の心や考え方、とそう当てはめてみると面白い。
 昨年出逢った人と今年会っても人は変わらない。だが、心はどうだろう。少しは変わっているか、まるっきり変わってしまっている時もある。
 昔、泣き虫だった子供が、数年後には逞しい強い子になっている。学生時代に悪ぶっていた人が、いつのまにか真面目な社会人になっていたり、逆に、秀才で真面目だった学生が、社会に出たらいつのまにか落ちこぼれの愚痴人間になっていたりする。
 善い方に変わるのは素晴らしいことだが、悪い方へ変わるのはいただけない。人間は弱い生き物でもある。『朱に染まれば赤くなる』のたとえどおり、私たちの持っている適応能力が、逆に悪い方への適応能力になってしまっては、困ってしまう。
 種から化ける。いや、種から変化して綺麗な花を咲かせるように、私たちも素晴らしい方へ変化したいものですね。
『年々歳々花相似、歳々年々人不同』と口ずさみ、私たちはいつでも変化しているし、変化さすことが出来るのだ、と。

 この他愛もない話がみなさんの心の中に入り、変化するひとつの種となって下さいますことを、私は切に切に願う次第です。

春先に

出会う子供に教えられ

花見る度に

我心を見つる

    春の童女に感謝を込めて   幸徳  合掌