真言密教

Japanese Esoteric Buddhism

 弘法大師空海によって開かれた真言密教は、神秘体験の宗教だといえる。神秘体験とは、言葉で説明できるものではなく、直接的に心を揺さぶる不思議な感覚としかいえない。肉眼では見えないし、耳には聞こえないけれども、それは厳然と在り、魂に響いてくる。その体験が密教では根本にあり、苦しみからの解脱も、救済も、覚りも、また自他のために願う祈りも、すべてはこの神秘実在の体験から派生する。

 真言密教の教理は、人間の宇宙観、人生観の至極を窮めていて、生きがいのある人生を生き抜くための大切な要を説いている。だから、それを自分のものとして、生活の中に生かせば、無限の喜びと幸福が湧いて尽きることがない。

 たとえば、眼の前で、子供が転び、泣いているとする。それを見て、手を差し伸べ、子供の腕を取り、『立ちなさい』と叱咤するのは、密教ではない。密教は、自分も子供と同じように転び、泣いているその子供と視点を同じくし、にっこりと微笑みかけ、『さあ、一緒に立って遊ぼうよ』と誘う。これが密教のスタンスだ。決して上から物を言うのではなく、共に歩んでゆく。だから、密教は、一部の出家者だけのものではなく、それを求めるすべての人達のものだといえる。

 密教は、求道者自らが仏となり、光源となるのを目的としている。ここにいう求道者とは、何も出家者に限ったことではない。在家でも、その心さえあれば、すぐに実践できる。むしろ、密教は、俗世で生きるためにある教えだといっていい。まずは、煩悩のままに生きることを慎む。かといって極端な禁忌や苦行は、必ずしも良いとはいえない。つまりは、要するに、欲望を適度に節制し、心身を清らかに保ちながら、自省し、他人を傷つけることをせず、常に自分を含めたすべての人が快適に暮らせることを念頭に置いて生きること、それが求道者のあるべき姿勢であり、即身成仏(この身体をもって仏の境地となること)への道だ。

 大切なことは、『今、いかにして、生きるか』であり、今が苦しいのならば、今、救われなければいけない。この世で救われなくて、あの世で救われる筈がない。なぜなら、未来は現在の延長にあるのだから。あの世は、この世の先にある。
 人間は、現在を生きている。もしも、現在、過ちを犯しているのなら、今それを悔い改めて、未来へと想いを繋いでいかなければならない。現在の自分に眼を瞑って、悔いるだけでは、未来はない。改めるべきところは改め、反省することが大事だ。その反省から、すべてはもう一度始まる。人間は学んでいくことができる。後悔するだけで止まってはいけない。道は先へと続いている。
 すべては今、この瞬間の中に在る。 

 大宇宙の波動を感じ、溶け合い、大日如来の心を覚ること、それが真言密教の本髄といえる。

 

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